フランコ・ザ・グレートについて

フランコは25年以上に渡り, 125丁目のシャッターに絵を描き続けハーレムのイメージを変えてきました。世界中のニュースや雑誌で幾度となく報道され世界でもよく知られる所となりました。以下、この偉大なアーティストのハーレムでの彼の仕事とその起源を記事の抜粋から紹介します。

フランコのストーリー

幼児期~少年期

2、3歳の時によじ登ったテーブルの上から窓の外へ転落、3階から通りに落ちて頭を打ってね。それ以来、私は言葉を失ってしまった。医者は「脳に何かが起きたらしいけれどはっきりしないので、このまま様子を見よう」と言って氷を頭に当てるだけだった。そして結局私は誰からも放って置かれた。母の注意を引くため椅子をがたがたしても無視されるだけ、友達と話も出来ないから学校へ行くのも辛かった。唯一、気分良く過ごせたのは、絵を書いている時。誰かと友達になりたい時は、その子の絵を書いて、自分の気持ちを表現したんだ。

そんな9歳のある日、神様が私の頭をパカッとひらいて、何かをぱっぱっとふりかけたような出来事があった。その日私は、よく通っていた教会の牧師に思っていることを伝えたくて3時間もねばったんだ。彼は私を座らせると字が書けるかどうか尋ねた。それは生まれて初めて誰かが私に注意を払ってくれていると感じた時で、彼は私が何を言をうとしているのか、何度も何度も理解しようとしてくれ、とうとう私は一冊の本が欲しいと伝える事が出来た。それは手品の本で、牧師は3ドルほどだったその本を買ってくれた。今もその本は持っているよ。本当に嬉しかった。すぐにその本で勉強を始めて一生懸命に覚えた。どんどん上達していくと、みんな手品が見たくて近づいてきたし、先生にもパーティーで手品をして欲しいと、頼まれるようになり。勉強が出来る友達に手品を教える代わりに勉強を教えてもらったりして、徐々に学校での自信をつけていった。牧師は、新しい手品に必要な小道具も買ってくれ、教会のイベントでは手品ショーの場を作ってくれた。

私の人生に大きな影響を与えたもう一人の人物にアーティストのジョージ・ダンジグがいた。彼は4年間もの間、私に話し方のレッスンをしてくれ、大勢の人の前で話す自信をつけてくれた。無視されてばかりいた自分が、学校や地域の人気者になっていったある日、ジョージに「手品の小道具が必要なら自分の絵を売ってごらん」と言われたのがきっかけで、学校の通りで絵を売り始めた。子供のための絵のコンペで優勝もしたし、だんだんと絵描きになる夢を持ち始めるようになった。そして結局、その夢のためにハーレムにやって来たんだ。

ニューヨークでの成功

1958年、ハーレムにすんでいた祖父母を頼って来るいなや、125丁目の店のドアを片っ端からたたいてまわった。私のアイデアは店の壁に絵を書かせてもらう事だった。それも無料でね。店のオーナーは一様に「何でタダなのか?」といぶかしがるので、これは私にとって一種のプロモーションなのだと説明したんだが、誰一人イエスとは言わなかったよ。私には理解できなかった。後日、友人に「君がタダで絵を書き終えた後、店のものを盗みに戻って来ると思ったのさ」と言われて驚いた。ニューヨークではタダで何かをしてあげようと考える奴なんて、誰一人いない、絵を描いている間に、アラームや非常口の場所など、店の内情を調べるつもりだ、と。私は新参者で、何も知らなかったんだ。

HARLEM GATES

それからダウンタウンのラテン地区にいき、一軒のメキシカンバーを訪ね、パティオに無料で絵を描かせて欲しいとオーナーに頼んだ。なぜタダで絵を描きたいのか、その理由と125丁目での出来事をお話すとメキシコ人のオーナーはOKしてくれた。翌日から朝早く起きてダウンタウンへ絵を描きに行った。それが完成する前に1人のジャーナリストが私のしている事を記事にしてくれ、翌日には別のメキシカンレストランのシェフが私の絵を見に来た。最初の仕事が終わる前に次の仕事が決まり、全てが動き始めるのを全身で感じ、小学生のころの手品を思い出して自分自身に言った、今がマジックの時だ、と。

マーティンンルーサーキング牧師が暗殺された後、125丁目に暴動が起きた。その騒動の後、オーナーたちは店の前面に鉄製のシャッターを取り付けたが、その眺めは、まるで牢獄に囲まれているようだった。そのうちに子供たちがスプレー缶で落書きを始めて、状況はもっとひどくなった。あるとき知り合いになった店主の1人が、シャッターに絵を描いてみないかと言い出して、ひとつやってみようと決心したんだ。そして私は一本の木を描いた。アメリカに到着したその日から私はハーレムに住み、初めはよそ者だった自分がすっかりこの街の1部になっていると感じるようになり、やがてハーレムに根っこをはり、枝を広げ、花を咲かそうと決心した思いを込めて、一本の木を描いたんだ、桜のようにピンクの花を咲かせた一本の木を。それが79年で、最初のシャッターを描き終えると次のシャッターを描き始めた。この憂鬱なコミュニティーの見栄えをすこしでも良くしたい一心、200枚以上のシャッターに次々と描き続けた。時間がたったシャッターには新しい絵を描き重ねていった。70年代後半、ここは死んだも同然だったけれど、今は随分とおしゃれな通りになったよ。」

今日のフランコ

ほとんどの日曜、125丁目に訪れる観光客を暖かく迎えるフランコに会うことが出来ます。フランコは彼の絵と彼自身のパーソナリティーを通じて、世界中の人々とコミュニケーションをはかっています。

125丁目のシャッターに絵を描き続けたことにより、様々な国から仕事の依頼を受けたり、招待されるようになりました。ドイツ、スイス、日本、カリブ諸島、アフリカの国々。学校内の壁画、保育園、バーやナイトクラブなど、今日ではニューヨークのみならず、その他多くの国々で彼の仕事を見ることが出来ます。

フランコは特に日本との親交が深く、今までに19回も日本を訪れています。あなたの住む街の中どこかにもフランコが残した壁画があるかもしれません!

フランコに会いにハーレムを訪れてください。

フランコは毎週日曜日、朝9時から1時までの間、125丁目のアポロ・シアターの向かい側で世界各国から訪れる観光客のみなさんを暖かくお迎えしています。

フランコのTシャツや絵画のプリントを購入したい方はオンライン・カタログで商品番号を確認の上、メールにてご注文ください。ご注文の際は日本語でどうぞ。

フランコ紹介記事
掲載年 掲載新聞・雑誌 掲載記事のタイトルと要約

2007年

読売新聞

東京に壁画残したい。

1991年

週刊新潮

フランコ氏は観光名所

1996年

毎日新聞(信濃)

言葉超え長野県丸子町の保育園児と交流。

1996年

読売新聞

今回は仕事での来日だが「日本の子供達と交流がしたい。」と言う希望により渋谷区恵比寿の幼稚園ユニダ・インターナショナル・スクールを訪れ園児達と絵画を通じて交流。

1991年

The Japan Times

The "Picasso of Harlem" Bring art out of museum into Fukuoka Street.

1991年

読売新聞 (福岡)

桑原市長「文化的な新名所が出来た。」

1991年

読売新聞(横浜) ハーレムを生き返らせた腕前
「灰色の街と言われた、ハーレムをたった1人でよみがえらせたフランコ氏もぜひ新しい街づくりに!」と言う声が高まり急きょ今回の招待となった。「種をまかなければ何も育たない。私は、かつて死の町言われたハーレムに、創造とインスピレーションの種をまき、開花させた。新本牧にもその種をまきに来た。」初めて店のシャッターなどに絵画を書き始めたときのハーレムは、何も見るところの無いグレーの街と言われた。「でも自分には、必ずこの街を生き返らせるだけの力がある。また、そういう力を神様が与えて下さったと信じて描いた。世界のどこであろうと、創造の種をまきに行くのが私の仕事。頼まれればどこへでも行く。」
Franco The Great